和田光弘 お勧めの逸品
杵鑽孔機と高速度自動送信機
紙テープに孔を開けて情報を記録したものとして、テレックスやミニコンピューターの入力用に使われた「5単位鑽孔テープ」(写真1上段)を記憶されている方も多いだろう。文字や記号を符号化して紙テープに孔をあけて記録したもので1960年~1970年代に使われた。しかし、それ以前、通信の手段がモールス符号による伝達が主であった時代に、「2単位鑽孔テープ」(写真1下段)にモールス符号を記録していた時代があった。
2単位鑽孔テープは、国内電報の取扱いが急増した1880年代(明治15年頃)から本格的な使用が始まり、国際有線電信業務(国際電報や外国の通信社のニュース配信)や、固定局間の無線電信局の一括呼出しや一斉連絡配信用に、1950年(昭和25年)頃まで70年余りも使われていた。しかし、モールス符号の送受という特殊な現場でしか使われていなかったため、その事を知る人は少ない。
モールス符号による電文を紙テープに鑽孔する手動式のパンチャーを写真2に示す。太い鉛筆状の杵を使い、三つのボタンを叩いて紙テープに鑽孔する。左のボタンを押すと短点(ドット)に相当する穴のペアと駆動用小穴が鑽孔されて紙テープが左に移動する。中央のボタンを押すと短点3個に相当する時間長のスペースのために駆動小穴が連続して3つ鑽孔される。右のボタンを押せば長点(ダッシュ)に相当する穴のペアと駆動用小穴が鑽孔されて紙テープが繰り出される。この「杵」鑽孔器はタイプライター形式のクラインシュミット鍵盤鑽孔機が普及する1940年頃まで、50年以上も使われていた。当ミュージアムの前学術調査員である宮坂武芳氏(本学名誉教授)が、1941年(昭和16年)に銚子無線局を見学の際に「無線局の方が、杵を手玉にとるようにテープを作っていた姿を見て、非常に驚いた・・・」という記録が残っている。
写真3は2単位鑽孔テープにモールス符号で記された電文を高速に自動送信する装置である。2単位鑽孔テープの送り出しに21.5Kgの錘を使っている。錘の垂れ下がる速度で鑽孔テープを繰り出し、上の穴を検出して電気信号をONにし、下の穴を検出してOFFにすることで電気信号を断続する。穴の検出は機械的に行われ、紙テープの繰り出しが順調に行われるには一定の速度範囲があり、低速度になると紙テープの繰り出しが不安定で符号を読み取れないなどの欠点もあった。調整には相当の熟練が必要なこの懸垂式の装置は、後にモーター式の自動送信機が普及する1950年頃まで使われていた。
船舶局との間の無線通信では、国際電気通信条約附属無線通信規則に定められた無線通信士の資格の中にあるように、手でモールス信号を送り音響で聴き取る方法で交信している。高速自動送信機は、無線通信規則及び電波法無線局運用規則に従って、一定時刻にアルファベット順に呼び出す一括呼出しや、天気予報などの一斉連絡用に使われた。磁気テープや半導体メモリーが現れる以前に、文字を符号化して紙テープに穴をあけて記録した上でモールス符号で伝送していた時代があったということを、是非、ミュージアムで見て知って頂きたいと思い、「逸品」として紹介する。
<参考>
高速度自動送信機で送信されたモールス信号は、1分間に160字~180字位で送られてくる場合には、直接タイプライターで受信する場合もあり、それ以上の例えば、欧文普通語1分間200字位になると、機械的要素を取り入れ、最後に人間によって文字化するという過程が取られた。ちなみに、現在の第一級総合無線通信士の合格基準は、1分間に欧文普通語100文字、和文で75文字である。
高速度モールス信号の受信システムは、「信号増幅器」⇒「SU2型現波機・高速度受信用記録機」⇒「高速度記録装置牽引機」で12㎜の紙テープに符号を画かせ、最後に「電信用タイプライター」で、例えば、電報に仕上げられた。 なお、当ミュージアムでは、高速度受信装置は大型の無線受信機とセットで使われることが多かったので、第5展示室ではなく、大型短波受信機の置いてある第1展示室に展示してある。
(第5展示室担当学術調査員 和田光弘)
1950年製ラジオゾンデと藤原寛人(新田次郎)
ラジオゾンデは高層気象観測用のテレメトリ装置である。静止衛星「ひまわり」が上空からの気象観測に活躍する現在でも、毎日2回、日本国内では16ヶ所から打上げられ、厳しい測定条件下、上空3万メートルまでの気象を観測し、その測定結果は、天気予報や航空機の運航等に利用されている(気象庁:http://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/upper/kaisetsu.html)。
日本のラジオゾンデの開発は、1933年(昭和8年)、陸軍科学研究所による弾道研究目的が最初である。1937年には 定時観測が開始され、これは中央気象台(現在の気象庁)より早かった。中央気象台では、陸軍とは別に中央気象台で開発したラジオゾンデを使って1938年から観測が始まった。 この頃は、空中の気圧・気温・湿度の実測値の変化を、連続的な周波数変化に変換させていく波長変化方式を使っていたので、一つの気象要素について一つの送信機を必要とした。その為、気圧・気温・湿度測定専用の三つの送信機を内蔵したために周波数の使用帯域は6.2~12MHzと広く、しばしば他の無線電信や無線電話との混信がみられた。
藤原寛人は、1932年に無線電信講習所(現在の電気通信大学)を卒業し、中央気象台に就職、同年開設されたばかりの富士山観測所の交代勤務員となった。1年に3度は富士山に登り、一度山頂に登ると30日~40日は滞在したとのことである。 この富士山観測所の担当は1932年から1937年まで続いた。富士山観測所は1936年に外輪山南東から剣が峰に移設され、1941年には支援拠点として御殿場事務所が開設されている。
1940年、藤原寛人28歳の時、前年に千葉県に開設されたばかりの中央気象台布佐出張所(気象送信所)に赴任した。 布佐は、日本で最初に、ラジオゾンデによる高層気象観測が始まったところである。 おそらく思うように動いてくれない当時のラジオゾンデに泣かされたことだろう。当時のラジオゾンデはもちろん真空管式であった。
日本で最初の「ラジオゾンデ」という専門書を藤原寛人が執筆したのは、1942年(30歳)である。同書は当ミュージアム第4展示室に所蔵・展示している。これが藤原寛人(後の作家、新田次郎)の最初の著作である。 その後、1943年に中央気象台から満州国観象台(満州国中央気象台)に転職、戦後1年間の抑留生活後、1946年に気象庁に復職した。
復職3年後の1949年、藤原寛人37歳のとき、エポックメーキングなラジオゾンデが登場する。モールス符号で測定データを伝送する方式で、S48A、S49A、S50型とバージョンアップされていった。これらは中央気象台で開発・試作され、メーカーが量産化した。S50型にはセンサの形状が比較的大きなL型とそれに比べて小型のM型があり、久保田気象測器株式会社による1950年製CMO-S50M型を写真1に示す。総重量は850グラムである。
温度はバイメタルで+40℃~-80℃、気圧はアネロイド気圧計(空ごう気圧計)で1040㏔~5㏔、湿度は毛髪を使って100%~0%の範囲で測定される。測定値はモールス符号の"T, N, D, B, 6, X, U"および区別符号のlongTに変換され、周波数402MHzで地上に送信された。
符号変換部の模式図を図1に示す。オルゴール状の回転ドラムの表面に市松模様に符号を腐蝕焼付し、その表面をそれぞれの測定器指針の先端がタッチすることでモールス符号への変換が行われた。
符号変換方式のラジオゾンデはヨーロッパで既に考案されていたが、その実用化への貢献は藤原寛人と気象研究所の技師によるものであった。 無線電信講習所を卒業し、第一級無線通信士と第一級無線技術士の資格を取得していた藤原寛人だからこそなしえたと言えよう。このモールス符号送信方式のラジオゾンデは、その後、改良を重ねながら1982年まで、実に30年以上もの長い期間にわたって使われた。 しかも1969年に完全トランジスタ化されるまでは、発信機に真空管が使われていたのである。
藤原寛人は、その後富士山レーダー建設の責任者となり、歴史に残る仕事をやりとげる。「高層観測指針」(全269頁回路図付)の序文には、
本書は高層課長〇〇技官のもとに藤原寛人技官が編集に当り、夫々各章の脚注に書いてある諸君の執筆になるものである。
と記されている。1951年は、藤原寛人が新田次郎をペンネームとして「強力伝」を執筆した39歳の時であった。 豊富な現場経験と、当時最先端の無線知識を基に、中央気象台の気象観測機器担当の中心を担う技官として活躍していたことがうかがえる。 当ミュージアムで、是非、作家「新田次郎」すなわち藤原寛人が一流の技術屋であったことを証明するラジオゾンデ「S50M型」をご覧いただきたいと思い、ここに「逸品」として紹介する。
<参考>
ラジオゾンデは、藤原寛人らの開発した符号式以外にも、常に当時の最新の通信技術、情報処理技術、電子部品を取り入れ、観測精度の向上、小型軽量化、低廉化が図られてきた。当ミュージアムで常設展示しているラジオゾンデの一部を以下に示す。「レーウィンゾンデ」とは、気圧・温度・湿度に加えてゾンデの位置を無線で追跡することで風向と風速を観測可能な装置である。「GPSゾンデ」ではGPS測位情報から風向・風速を算出する。
(第4展示室担当学術調査員 和田光弘)