電気通信大学60年史
後編第1章 新制大学昇格への苦難の道
第1節:占領軍の教育管理政策
無線電信講習所が新制大学として新しく誕生するにいたるまでには紆余曲折をたどるが、当時の関係者のひとかたならない努力があった。しかしながらそれも敗戦を契機として、わが国の国政全般に対して大きな改革を迫った連合国軍最高司令部(GHQ)の四つの指令と、文部省の「新日本建設の教育方針」のわくの中でのことであり、この政策をここに記述して、その厳しさを改めて認識しておきたい。
1-1 四つの指令
連合軍の占領下にあった当時、教育改革は二つの段階を経て実現され、ほぼその基本路線が敷かれた。第1段階として、1945年(昭和20年)9月文部省の「新日本建設の教育方針」、同年10月から12月にわたるGHQの「日本教育制度に対する管理政策」など四つの指令、翌1946年(昭和21年)4月の「第一次米国教育使節団報告書」及び5月の「新教育指針」の発表と、これらに基づく諸施策があった。第1の段階は、昭和21年8月内閣に教育刷新委員会(昭和24年以降は教育刷新審議会)が設けられたことに始まり、以後、同委員会の審議とその建議を基にして新教育制度の基礎になる重要な法律が制定、実施された。すなわち、1947年(昭和22年)4月から6・3制が発足し、新しい教育行政制度も敷かれるなど、教育改革の骨組みはほぼこの第2段階の時期に出来上がったのである。
敗戦後の措置として特に厳しかったものは、軍国主義の極端な国家主義的な思想と教育の排除であった。これを端的に示したものは、昭和20年10月22日GHQの「日本教育制度の管理」に関する指令とこれに引き続き昭和20年末までに出された三つの指令であった。第1の「日本の教育制度の管理」に関する指令は、教育内容、教育関係者と、教科目・教材の3事項からなっていた。
教育内容については、
- 軍国主義と極端な国家主義的思想の普及を禁止し、軍事教育の学科と教練を廃止すること。
- 議会政治、国際平和、個人の権威、集会・言論・信教の自由等基本的人権の思想と合致する考え方を教え、かつ、その実践を確立するよう奨励すること。
教育関係者については、
- 職業軍人、軍国主義者、極端な国家主義者と、占領政策に積極的に反対する者は罷免すること。
- 自由主義と反軍国主義的な思想、活動のため解職された者は復活、復職させること。
教科目・教材については、
- 現在の教科目、教科書、教師用参考書と教材の一時的使用は認めるが、軍国主義、極端な国家主義的な部分は削除すること。
- 教育があり、平和的で責任を重んずる公民の育成を目指す教科目、教科書、教師用参考書と教材を速やかに用意すること。
- 教育制度は速やかに改編するべきであるが、設備等不十分な場合には初等教育と教員養成を優先させること。
以上この指令に示された教職員の適格審査と追放、教育内容の削除改訂は、当時の教育界に対する極めて厳しい指令であったが、更にこれを厳格に実施させるために、次の第2から第4までの指令が発せられたのであった。
第2の「教員及び教育関係者の調査、除外、認可」に関する指令は昭和20年10月30日に発せられた。これは第1の指令の中の教育関係者に関する事項の実施について更に詳細な内容を示したものである。
第3の「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並びに弘布の廃止」に関する指令は昭和20年12月15日に発せられた。これは国家神道、神社神道の思想と信仰が軍国主義的及び極端な国家主義的思想を鼓舞し、日本国民を戦争に誘導するために大きく利用されたとの見地から、政府がこれを保護、支援することを禁止し、神道による教育を学校から排除することを指令するものであった。
第4の「修身、日本歴史及び地理の停止」に関する指令が昭和20年12月31日に発せられた。これは、指令全体を貫く軍国主義的及び極端な国家主義的思想の排除を教育内容において徹底しようとするもので、特に修身、日本歴史と地理のすべての授業を直ちに停止し、GHQの許可あるまでは再開しないという内容であった。後述の文部省が独自の立場で発表した「新日本建設の教育方針」と、この四つの指令を比べると、占領政策がいかにわが国の軍国主義的及び極端な国家主義的思想と教育の払拭に徹底していたかが伺えるのである。
四つの指令の実施の状況は、第1に教職員追放があった。第1、第2の指令をうけて1946年(昭和21年)5月その実施に必要な法令が整備され、教職員の適格審査が開始された。不適格者は審査によって判定される者と、定められた基準によって自動的に排除される者との2種類があった。また、審査を受けることを潔しとせず自ら教育界を去った者も少くなかった。第2は、教科目・教科書等に関する第1と第4の指令の実施で、文部省は教科書の取り扱いについて、注意すべき教材の規準として、(1)国防軍備を強調し、(2)戦意高揚を図り、(3)国際の和信を妨げ、(4)敗戦に伴う現実と遊離し、または児童、生徒の生活体験とかけ離れた教材等をそれとして指摘した。修身、日本歴史、地理の授業の即時停止とその教科書の回収を命じた第四の指令は突然のことであり、殊に膨大な量の教科書の回収は当時の輸送事情もあって難事業であった。第3の神道に関する指令の実施は、学校における(1)神道の教義の弘布はその方法・様式の如何を問わず禁止する、(2)神社参拝、神道関係の祭式、儀式等の挙行、その後援を禁止する、(3)神社、神棚、鳥居、しめなわ等は撤去し、御真影奉安殿、英霊室または郷土室等についても神道的象徴を除去すること、等であった。なおこのほか、この四つの指令に関連し、禁止または廃止の措置として、敗戦後間もなくの8月24日に学徒軍事教育、戦時体練と学校防空関係の訓令はすべて廃止され、10月3日には銃剣道、教練、11月6日には武道が禁止された。更にこれら以外に当時とられた措置には、(1)まず学徒については、8月28日復員学徒の卒業・復学について通達が出、(2)9月5日、陸海軍諸学校出身者と在学者の文部省所管学校への転・入学を認めることとし、(3)10月19日には、外地引揚げの学徒にも同様の取り扱いがとられることとなった。
社会の出来事 |
|
---|
1-2 文部省の新教育方針
文部省は敗戦直後の1945年(昭和20年)9月15日にいちはやく戦後教育の基本方針として、「新日本建設の教育方針」なるものを発表した。これは先に述べたGHQの四つの指令が示される以前のGHQが関与しなかったものである。その要旨は次のようであった。
- 新教育の方針 国体護持を基本とし、平和国家の建設のため、教養の向上、科学への思考、平和愛好の信念を涵養する。
- 教育の体制 平時体制への復帰、軍事教育の全廃、戦争直結の研究所等の平和的改変。
- 教科書 根本的に改訂するが、差し当たり訂正削除する。
- 教職員に対する措置 再教育計画を策定中である。
- 学徒に対する措置 学力不足を補う措置をとる。一部につき転学・転科を認める。陸海軍学校の生徒と卒業生の希望者は文部省所管の学校へ入学させる。
- 科学教育 真理探求に根ざす科学的思考、科学常識を基としてこれを振興する。
- 社会教育 道義の高揚と教育の向上を新日本建設の根底とし、成人教育、勤労者教育、家庭教育等、社会教育の全般について振興を図り、文化の興隆について具体案を計画する。
- 青少年団体 学徒隊の解散に伴い、中央の統制によらない郷土を中心とする青少年団体の育成。
- 宗教 宗教による国際親善と世界平和を図る。
- 体育 体位の回復向上に努め、勤労と教育の調整に重点を置く食糧増産、戦災地復旧等の作業を実施し、明朗な運動競技を奨励、純正なスポーツを復活し、併せて国際親善を図る。
- 文部省機構の改革 学徒動員局を廃止し、体育局、科学教育局を設ける。
このような方針と対策をもって、文部省は教育面の敗戦処理にあたり、一方、新教育の推進を図った。
社会の出来事 |
|
---|
1-3 教育基本法の制定
敗戦によって戦時教育体制から平時体制への切り替えと、軍国主義的及び極端な国家主義的な思想と教育の払拭を主眼として、戦後処理の諸措置が厳しい連合軍の占領下、急速かつ精力的に行われていった。戦後の教育改革を中でも積極的、包括的に方向づけたものに1946年(昭和21年)3月来日した米国教育使節団の勧告がある。GHQが米本国に要請したのである。GHQはこれを昭和21年4月7日発表したが、教育の基本は、個人の価値と尊厳を認めることであり、教育制度は各人の能力と適性に応じてその機会を与えるよう組織すべきであるとの基本理念の上に、新しい学校制度として6・3・3制と、特に6・3の義務制とその無月謝、男女共学を、高等教育については必ずしも4年制大学に統一化せず、門戸開放とその拡大を勧告し、大学の自治尊重と高等教育へ一般教育を導入することを述べている。また教員養成については大学段階での養成を、初等中等教育の行政では地方分権制度を、社会教育は成人教育の重視を勧告。国語の改革については、漢字の制限、仮名の採用、ローマ字の採用の三つを改良案としてあげている。
次に新教育推進に大きな役割を果たしたものに、昭和21年5月文部省が発表した教師のための手引書、「新教育指針」がある。二部作であるがその基本理念は、個性の完成、人間尊重であった。戦後の新しい教育のあり方について模索していた当時の教育界に対し文字どおりその指針となったのである。
一方、昭和21年8月内閣に教育刷新委員会なるものが設けられ、敗戦の荒廃と占領下の未曾有の厳しい条件の下で、教育の改革の具体案を作ることに着手した。その後12月27日、
の四つの事項をまず建議し、1951年(昭和26年)11月解散するまで数多くの改革の基本となる法令を具体化した。
- 教育の理念及び教育基本法に関すること。
- 学制に関すること。
- 私立学校に関すること。
- 教育行政に関すること。
いずれにせよ、戦後の民主的教育体制の確立と教育改革の実現にとって、最も基本的な意義を持つものは「日本国憲法」とこれに続いた「教育基本法」の制定であった。
旧憲法にはなかったが、新憲法では国の基本に関する定めの一つとして教育に関する事項が取り上げられており、主としてその第3章「国民の権利及び義務」で規定されている。これは直接間接に教育に関連をもち、教育関係立法の基礎となった。特に第26条は、国民の教育を受ける権利を基本権の一つとして認め、義務教育の根拠を憲法に定めることになったのである。
この立場に立った最初の立法が1947年(昭和22年)3月に制定された「教育基本法」である。教育に関する基本的な理念と諸原則を法律で定めたのである。
「教育基本法」は、前文及び11条からなっていて、前文では、新憲法の理念の実現は根本において教育の力に待つべきであること、また、新憲法の精神にのっとって制定したと述べている。第1条の「教育の目的」、第2条「教育の方針」には、米国教育使節団の勧告、新教育指針に示された新しい教育の基本的な考え方が示されている。以下第3条「教育の機会均等」、第4条「義務教育」、第5条「男女共学」、第6条「学校教育」、第7条「社会教育」、第8条「政治教育」、第9条「宗教教育」、第10条「教育行政」では、それぞれその考え方と原則を規定している。第11条「補則」では、これらの原則的諸条項を具体的に実施する場合には、別に法令が定められなければならないとし、この法律が「基本法」であることを明らかにしたのである。
社会の出来事 |
|
---|
1-4 6・3・3制の実施
新教育制度の骨組となり改革を具体化したものは、1947年(昭和22年)3月制定された「学校教育法」であった。
その理念と内容は、
- 教育の機会均等の実現である。特に男女による差別をなくし、経済上の理由による就学困難者には、援助か奨学の途を講じた。高等学校と大学には通常課程の他、定時制、通信制の課程を正式に認めた。
- 学制の単純化である。新学制は、6年制の小学校に続き、中等教育を3年制の中学校と3年制の高等学校と単純化し、高等教育機関を4年制の大学に一本化した。
- 3年制の中学校を含めて、義務教育を9年に延長し、すべての中学校は職業分化のない普通教育とした。
- 高等教育の普及と学術の進展を図るため、大学の門戸を広く開き、大学院を新学制の頂点とした。
「学校教育法」は、昭和22年4月から施行され、新制小学校、中学校が昭和22年、高等学校が昭和23年、そして昭和24年に新制大学が発足した。
新制大学における大学は、旧学制における高等学校・専門学校・師範学校・高等師範学校・大学等を移行転換して再編したものであるが、すべて均等な4年制の高等教育機関として差別をなくしたので、ここにも学校体系の民主化を見いだすことができる。大学院には修士課程と博士課程の二つが設けられ、研究者を養成する目的で指導が始められた。なお、新しい大学制度では、職業教育を施す目的で2年制の短期大学をも承認したので、大学の編成は、短期大学と4年制大学と大学院の3種類をもってすることとなったのである。
かくして成った新制大学は、旧制大学とはまったく異なる性格をもつ高等教育機関として発足した。すなわち、学校教育法第52条には、「大学は学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門学芸を教授研究し、知的、道徳的および応用的能力を展開させることを目的とする」とあり、旧大学令・専門学校令とは趣意を異にしているが、その特色とするところは要するに、一般教養の地盤の上に、学問研究と職業教育とを有機的に結合しようとする点にあった。
新制の国立大学は、1949年(昭和24年)5月31目公布の国立学校設置法に基づいて設置された。これよりさき、アメリカ教育使節団の報告書が、「高等教育は少数者の特権ではなく、多数者のための機会となるべき」ことを説き、大学の増設を勧告していたことからも知られるように、教育の機会均等と教育の地方分権化は、新学制施行の主要な目標であったので、新制国立大学の設置に際しては、特別の都道府県を除き、一県一大学の原則によって、同一地域の旧制大学・高等専門学校等の統合が実施され、その結果、各都道府県に漏れなく大学の設置を見ることとなったのである。
旧制専門学校の中には、教員組織、施設設備等の整備が遅れ新制大学へ直ちに切り替えられないものもあった。
社会の出来事 |
|
---|